身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2013年8月―NO.126

あのふわふわ、とろとろとして、しなだれる感触。

しっとりしていながら、さっくりと軽くて、口の中でとろーっとほどける食感……

billsの「リコッタパンケーキ」


 正直な話、ホットケーキとパンケーキの違いはどこにあるのかわからないまま、私は「パンケーキ」という言葉を使っている。ホットケーキよりパンケーキの方が、何となく高級そうに聞こえるからだ。
 強いて言うなら、私たち昭和三十年代の子供が、おやつとして食べたのがホットケーキ。(ホットケーキは、時々、揚げドーナツに姿を変えることもあった)。そして、マンハッタンのビジネスマンが朝食に、スクランブルエッグやベーコンと一緒に食べるのがパンケーキ……私の中では、そんなざっくりとした分類になっている。
 そのパンケーキが数年前から大ブームで、人気店の前では、お客がいつも長蛇の列をなしている。ブームのきっかけになったのはシドニーからやってきた「bills」という有名店で、ここのスクランブルエッグとリコッタパンケーキなるものは「世界一の朝食」と呼ばれているそうだ。
 私は、炊きたてのご飯と味噌汁と納豆という「正調・日本の朝食」で出来上がった人間だが、噂の世界一のパンケーキとやらを食べてみたくて、数年前、わざわざ鎌倉・七里ガ浜の海岸に面したbillsに行ってみた……。
 待ち時間一時間半。パンケーキ一皿が、千四百円という値段はかなり高めと思うが、それでも次々にウェイティングリストに名前が連なっていく……。海岸をぶらぶら散歩して時間をつぶしてやっと席につき、注文してさらに待つこと二十分。時間はもう午後一時半。お腹が減ってたまらない。
(こんなに待たされて、おいしくなかったら文句言ってやる)

billsの「リコッタパンケーキ」
billsの「リコッタパンケーキ」
 と、イライラしながらいる所に、蜂蜜色に焼けた、見るからにふわふわのパンケーキがすっと差し出された。思わず、
「うわぁー」
 と、声が出た。なんて美しいパンケーキだろう。もう、見た目からおいしさが伝わってくる。
 フレンチトーストか揚げだし豆腐みたいな色にこんがりと焼けた三枚のパンケーキが、白い皿に無造作に積み重ねられ、はんぺんのようにふわふわしながらしなだれている。その上で、トローっと金色に光りながら溶け始めているのは、琥珀色の蜂蜜を練り込んだハニーコームバターだ。バターの香ばしい香りが鼻をくすぐる。
 フォークで触れると、パンケーキのしっとりと柔らかい生地は、空気をたっぷり含んで、ふるるんと左右に小さく揺れ、一切れ口に入れると、口の中の温度でとろーっとほどけて広がり、胃の中に消える。甘みはほとんどなく、添えられたフレッシュバナナとメープルシロップの上品な甘みが丁度よい。
 しっとりした生地のどこかにチーズの風味がある。リコッタチーズだろう。癖はなく、実にさっくりと軽い。
 以来、時々、無性にあのパンケーキが食べたいと思うようになった。ひとたび「食べたい」と思ったら、もうあの蜂蜜色のフレンチトーストかはんぺんみたいなふわふわしたパンケーキの幻が、アップになって脳裏に迫り、私はやるせない憧れに身悶えするしかないのである。
 何だろう。あのふわふわ、とろとろとして、しなだれる感触。しっとりしていながら、さっくりと軽くて、口の中でとろーっとほどける食感……。
 辛抱たまらず、三年前にオープンした横浜の赤レンガ倉庫にあるbillsに何度か行った。ここも例にもれず長蛇の列で、平日でも四十分待ちはざらだ。それでもみんな行列を組んで順番を待っている……。
billsコースター
billsコースター

billsコースター
横浜・赤レンガ倉庫
  先日の雨の日、私はまた赤レンガ倉庫のbillsに行き、やっと目の前に運ばれてきたリコッタパンケーキを口に運び、そのしっとりとしていながら、実に軽くてなめらかな感触を味わった。手を止めて、しみじみとパンケーキの断面を眺めると、爽やかな卵色の生地にふつふつと気泡が見える。その中に混じって白くリコッタチーズが見える。
 きっと卵白を泡立て、さっくりとリコッタチーズを混ぜたのだ。
「………」
 さほど手をかけない、そっけない料理なのに、奇跡的においしいものがある……。
 何気なくテーブルのまわりを見渡すと、billsと印刷されたコースターも、テーブルも水の入ったコップも、私のまわりのすべてに、日本じゃない空気を感じ、私はいつの間にか、知らない国のレストランでパンケーキを食べているような気がした。
 何と言ったらいいか……つまり、このパンケーキは、日本の風土のものではない。このパンケーキには、青空が似合うのである。外は雨で、雷まで鳴っているのに、それでもふわふわしたリコッタパンケーキの上には、いつもカラッとした青空が見える。
 それは、ねばねばした納豆や漬物や「おふくろの味」とは対極にある。しがらみや腐れ縁などという、まとわりつくものの一切ない、空が青くて空気のカラッとした国から、風に乗ってやってきた食べものだ。義理人情やもたれあい、振り払っても振り払ってもからみついてくるものの多い国の地面からは生えてこない。
 パンケーキを食べている時、私はいつのまにか、しがらみも、まとわりつくものもないカラッとした空気の中に身を置いているような気持ちになっている。
 たくさんの人がパンケーキのために行列を組む理由は、ひょっとしたら、そのへんにあるのではないだろうか。
billsのホームページ

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