身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

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2015年4月―NO.145

新鮮なミルクの風味が白餡と混じり合い、
ふわふわした餅の食感とないまぜになって、
口の中ではかなく消えていく……

菓匠白妙の「白牛酪餅」

 もう十年以上昔のことだ。当時通っていた歯医者さんの待合室で、置いてあった女性誌を手に取り何気なくめくっていたら、あるページで手が止まった。
「……」
菓匠白妙の「白牛酪餅」 爽やかなガラス皿の上に載せられた和菓子の写真に心が惹かれた。いかにもみずみずしい、青々とした笹の葉っぱに包まれた真っ白い餅の写真だった。
 一瞬、鼻の奥にツンと、笹の葉の香りが過ったような錯覚を覚えた。
 笹の葉は、円錐型にクルリと丸められ、その中の真っ白い餅が半ば見えている。まるで、おくるみの中から赤ちゃんの顔が見えているいたいだった。
 写真というのは不思議だ。平たい紙の上の画像なのに、その中に手を入れて触れたかのように感触がわかる。笹に包まれたその餅は、普通の餅ではなさそうだった。肌理が細やかですべすべし、幼子の頬のように柔らかくふわふわとした感触が、写真から伝わってきたのである。
(指で押したらきっと、ふにゅっ、とするだろうな……)
 そう思うだけで、指先がくすぐったく、もぞもぞした。
 写真に添えられた文を読むと、その餅には新鮮な牛乳が使われ、餅の中に包まれた白餡には、クリームチーズや生クリームが煉りこまれているという。
(へえ~、ミルクとクリームチーズねえ……)
 私は、住宅に関しては、和洋折衷が住みやすいと思っているが、お菓子に関しては、和菓子は和菓子、洋菓子は洋菓子の範疇を守って欲しいと考える保守派だ。特に、洋菓子の素材を使った和菓子を見ると、奇をてらったように感じてしまい、どこかしっくりこない。たぶん、味覚という感覚が、記憶をなぞるものだからだろう。
 ところが、その青笹のおくるみに包まれたふわふわの真っ白い餅の写真を眺めながら、ミルクの味や白餡の甘さを思っていると、妄想だけで、口の中に、うす甘い唾液が湧いてきたのである。
(これ、おいしそうだなぁ……)
 そのページは、お気に入りのおやつを推薦する連載で、推薦人は、なんと松任谷由実さんであった。青春時代、「あの日に帰りたい」や「ルージュの伝言」のCDをすり減るほど聴き入った私の世代にとって、松任谷由実は神である。
(あのユーミンが、おいしいと言っている)
 そのことがまた、(きっと、おいしいに違いない)という確信を後押しした。
 その時、
菓匠白妙の「白牛酪餅」「森下さーん、どうぞ」
 と、声がかかり、私は突然、現実に引き戻された。雑誌を閉じ、急いで診察室に向かった。和菓子の名前や店の名をメモすることもなく、掲載されていた雑誌が何だったかもわからなくなった。
 その後も、たまに、
(あの和菓子、ふわふわしておいしそうだったな)
 と、思い出した。思い出すと、ほんのり甘い唾液が湧いた。まだ食べたことがないのに、こんなに味を妄想してしまうなんて、子供の頃、メロンパンに一目ぼれして以来だった。けれど、どこの何という和菓子なのかわからないまま月日は流れ、いつしか思い出すこともなくなっていた……。
 それは、先月のことだった。久しぶりにお目にかかった知り合いの奥さんから、
「森下さん、和菓子がお好きなんですってね。お口に合えばいいけれど……。うちの近所にあるお店の和菓子なんですよ」
 と、お土産を頂戴した。家に持ち帰り、箱をあけてみると、碁石のように白くて、まん丸い餅が並んでいた。箱の中には、青笹を折りたたんだものが入っていて、開いてみると、笹舟であった。
 その時、ぷーんと青笹のみずみずしい匂いがして、思わず、
「あっ!」
 と、声が出た。
 ひょっとしたら、あの時の……。
 青々とした笹舟に、白くてまん丸い餅を載せてみた。はやる心を抑えて、お煎茶を入れ、一口喉を湿してから、笹舟の上の餅を指先でつまんで、一口齧った……。
 まるで幼子の頬のような、ふにゅっ、と柔らかい感触があった。そして、その食感を、ふわりと優しい甘みの風が追いかけてきた。

菓匠白妙の「菜の花畑」
菓匠白妙の「菜の花畑」
(あ……)
 とろんとまろやかで、コクのある甘みだった。もしや、これはミルクではないか。そうだ、新鮮なミルクの風味だ。決して濃すぎないほのかな甘み。
 赤ちゃんを抱っこして、柔らかい頬に顔を寄せた時に感じる、優しい安堵の匂い。子供の頃に食べた「不二家のミルキー」のようなまろやかな風味。
 それが白餡と混じり合い、ふわふわした餅の食感とないまぜになって、口の中ではかなく消えていく……。淡雪のようにさーっと消えていくので、いくつも食べて確かめずにはいられない。
 それが、十年前、歯医者さんの待合室で見た雑誌の和菓子だった。
 その名は「白牛酪餅」。千葉の「菓匠 白妙」という店の和菓子である。
 もう決して忘れない……。

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