身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

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2015年12月―NO.153

叔母に促されて蓋を開けた瞬間、
「………!」
私はあまりの美しさに声を失った。

マッキントッシュの「クオリティストリート」


ネスレの「クオリティストリート」
 子どものころ、私は「宝物の箱」を持っていた。きれいな千代紙や包装紙など気に入ったものは、なんでもその箱に入れてとっておいた。その箱は、最初は「浅草海苔」の空き缶だったが、やがて「泉屋のクッキー」の缶に入れ替わった……。
 あの頃、一年で最もときめく行事は、何といってもクリスマスだった。今ではクリスマスに限らず街路樹にLEDの小さな豆電球が飾られたり、建物がライトアップされたりするが、昭和三十年代の当時、街が豆電球で美しく輝く日は、クリスマスだけだった。夜の街にとりどりの光が点滅すると、大人も子供も蕩けるようなロマンチックな気分に浸り、その雰囲気をクリスマスソングが盛り上げた。
 この日はまた、デコレーションケーキを食べ、プレゼントをもらえる日だった。日常の中に、突然、アメリカ映画の世界が舞い降りたような特別な日だったのだ。プレゼントの包み紙の上には、幅広の美しいリボンが惜しげもなく結ばれ、そこに赤い実のついたヒイラギの緑の葉やクリスマスカードが挟まれていた。
 クリスマスプレゼントの箱にかかっていた美しいリボンは、それ自体が贅沢に思えた。私はそれをきれいに解いて丁寧にたたみ、「宝物の箱」である泉屋のクッキーの缶の中に大事にしまった。クリスマスが終わって、アメリカ映画のような美しい世界が消えてしまっても、缶の蓋を開ければ、そこにいつでもクリスマスの華やかさが渦巻いているのだった。

 その頃、近所の商店街に「Sグロサリー」という小さな商店があった。当時としてはまだ珍しい輸入食料雑貨を扱う店だった。遠足の前日などに、私は母からおこずかいをもらって、よくそこにお菓子を買いに行った。
 まわりの商店街には、漬物、干物、生魚などの混じり合った匂いがぷんぷん漂っているのに、小さなドアを押し開け、一歩「Sグロサリー」の中に入ると、まるで違う世界の香りがした。ほのかに漂うチョコレートの甘い香りだ……。
 店内は間口が狭くて奥の深い「うなぎの寝床」状で、長い陳列棚いっぱいに、他では見かけない外国の缶詰やお菓子が山積みされていた。ハーシーのキスチョコや外国金貨のチョコレート、色とりどりのジェリービーンズ、ドロップ、マシュマロ、ピーナッツバター、クラッカー、キャンベルのスープ缶、オイルサーディンの缶詰、メープルシロップ、クッキー、レーズン、アーモンドやヘーゼルナッツなど外国のナッツ類、そして曇りガラスの瓶に入った洋酒の数々……。棚にあるもの何もかもが美しく洒落ていて、小さなキャンディの包み紙さえも宝石のように輝いていた。
 その棚に、ひときわ目を引く夢のようなお菓子の缶があった。私はその缶のことを今も鮮明に覚えている。直径三十センチほどの大きな丸い蓋に、藤色の日傘をさしたドレスの貴婦人と、金モールの肩章のついた赤い軍服の兵隊が描かれ、背景には外国の馬車や街並みが描かれていた。どこの国のお菓子なのか、なんという美しさだろう……。私は「Sグロサリー」に入るたび、その缶の前に足を止め、見入らずにいられなかった。


マッキントッシュの「クオリティストリート」
 あれは確か、小学校二年か三年のクリスマス。都内で働いていた叔母が、私にプレゼントをもって来てくれた。その包みを解くと、何と、あの貴婦人と兵隊の絵の缶が出てきたのだ。
「アッ、これ!」
 私は思わず声を上げた。
「きれいな缶でしょ。それ、イギリスのお菓子なんだって。中を開けてごらんよ」
 叔母に促されて蓋を開けた瞬間、
「………!」
 私はあまりの美しさに声を失った。
 缶の中は、まるで海賊船の船底に積まれた宝石箱のようだった。色とりどりのアルミ箔とセロファンに一粒一粒包まれたお菓子がザクザク入っていて、その色はルビーのような赤、エメラルドのような緑、サファイアの青、アメジストの紫、そしてゴールド……。私は子どもながらに目くるめくような贅沢感に酔った。

マッキントッシュの「クオリティストリート」
 そのお菓子の名が「クオリティ・ストリート」だということを、今回この原稿を書くことになって初めて知った。色とりどりのアルミ箔に包まれていたのは、チョコレートや、キャラメルのような食感の「トフィ」というお菓子だった。
 私は、チョコレートの中から、トローリとしたキャラメル味のクリームが流れ出したり、トフィの中のザクザクとしたナッツの食感を味わったりした後も、それらを包んでいたアルミ箔を捨てられなかった。あまりに美しいので、くちゃくちゃになった箔を指先で丹念に伸ばし、大事にとっておいた。
 そして、貴婦人と兵隊の絵の空き缶は、リボンやアルミ箔の包み紙を入れる新しい「宝物の箱」になった。時々、蓋を開けてアルミ箔の匂いを嗅ぐと、チョコレートの甘い香りがほのかに匂った。
 私に、あの美しいプレゼントを買ってくれた叔母は、その後、イギリス人の男性と結婚し、今も時々イギリスのお菓子を持って日本に来るが、現在の「クオリティ・ストリート」は、缶のデザインが全く違う。
 商店街の「Sグロサリー」もなくなって、そこは今、立ち食い蕎麦屋になっている。

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