身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

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2016年6月―NO.159

むしむしする日には、すっきりとしたレモン風味の白蜜がいい。
涼やかなガラスの器で、冷たく甘酸っぱいくずきりを、
つるつると啜りたい……。

オハラの「くずきり」

オハラの「くずきり」

 ホタルブクロが風に揺れ、あじさいが色づいて、妙に空気がむしむしとしてきた。分厚い緞帳のような梅雨が、もうそこまで迫っている……。
 こんな日は、なんだか無性にくずきりが食べたくなる。冷たく透き通って、つるりとした、あの気持ちのいい喉越しが欲しいのだ。
 いつもは、コクのある黒蜜を絡ませるが、こんなむしむしする日には、すっきりとしたレモン風味の白蜜がいい。涼やかなガラスの器で、冷たく甘酸っぱいくずきりを、つるつると啜りたい……。

 実は昨日、久しぶりに「時雨の記」を読んだ。中里恒子さんの40年前のベストセラー小説である。20年ほど前、友だちに勧められて一晩で読んだ。
 大人の男女の恋の物語である。男の名がいい。壬生孝之助(みぶこうのすけ)……。いい男は、名前もいいのだ。壬生はある会社の社長で、妻子がある。そして、女の名は堀川多江。
 壬生が初めて多江を見たのは、何十年も前の、ある通夜の席だった。当時、壬生はまだ独身で、多江に一目で惹かれたが、多江はすでに人の妻だった。
 それから何十年か過ぎて、壬生が50を過ぎ、多江が40過ぎになった頃、二人は知人の結婚披露宴で偶然に再会する。多江は早くに夫と死に別れ、大磯の家で茶道を教えながら一人ひっそりと暮らしていた。
 壬生はやっと再会した多江を逃すものかとばかりに会いに行く。
「会いたいから来た」
 そんな男らしい強引さに、多江は驚きながらも壬生の来訪を受け入れる。
 だけど二人は、いきなり男女の仲になったりはしない。まるで親友か身内のように、互いの茶道具を鑑賞しあったり、時には、壬生が多江を銀座に連れ出して、女の買い物に付き合い、一緒に食事をしたりする。
 壬生は一人で暮らす多江の身の回りに気を配り、会社の机に、多江との連絡のためだけの直通電話を置く。
「おはよう、今、何をしてたの?」
「髪を結って、そろそろ電話がかかるかな、と思っていたところ」
 毎朝決まった時間に、そんな他愛のない会話をしながら、互いの心を通わせ、無事を確かめ合う。そんな男女のやりとりが、たまらなく瑞々しい。
 多江は、壬生に妻子があることをわかっていながらも、いつも自分に注がれている視線があることに生きる幸せを感じ、次第に壬生に惹かれていく。
 不倫と言ってしまえば、そうなのだろう。これまで散々色恋もし、玄人との遊びにも慣れているはずの男が、初めて恋をした若者のように本気になる。壬生は、多江と暮らせるなら、今まで築いてきたものをすべて失っても惜しくないと思うが、背負った会社の重責と家庭を放り出すわけにいかない。それでも、いつかそういう世間から自由になって、多江を自分のものにしたいと思う。多江の作ったものを食べ、多江と好きな茶道具や花の話をし、一緒に暮らしたい。多江は、壬生の夢なのである。
 しかし、その夢がかなわぬうちに、壬生の命は尽きてしまう。……私はもう文字がにじんで見えなくなり、ページの上にポタッ、ポタッと涙を落とした。
 けれど、最後のページを閉じ、頬から顎に伝う涙を拭いた後に感じた、あの清々しさはなんだろう。塵が洗い流されたようにあたりが澄んでいた。そして私は、背筋をスッと伸ばして生きていきたい気持ちになった。
 それ以来、何年かに一度、「時雨の記」を読み返す。読むと、目玉にも心にも積もった塵が洗われて、思わず居住まいを正したくなる。

オハラの「くずきり」

 この物語の中に、多江が台所に立って料理をする場面が何度かあるが、中でも私は、「くずきり」のシーンが好きだ。
 むしむしとする日、体調が悪化した壬生が、運転手に抱えられるようにして多江の家にやってきた。ワイシャツ姿のまま横になった壬生に、多江は枕を当て、麻布団をかけてやる。彼が眠っている間に、多江は、冷たいものを口にしたら、少しは気分がよくなるかもしれないと、台所でくずきりを作り始めるのだ。
「弱火で吉野葛をかいて、(中略)砂糖とレモン汁をいれて流し箱に入れ、少し熱気を抜いてから冷凍庫に入れました」
 この文章を読むたび、レモンの爽やかな匂いが過り、酸っぱさで口の中に唾液がわいてくる。こういうものを台所でささっと作るところが多江らしいのだ。
 壬生が目を覚ますと、多江は冷たいくずきりをガラス鉢に入れて持って行く。
「うまそうだ、お手製で」

 そう言って、壬生がくずきりを啜る。そして、それは壬生が口にした最後の食べ物になった……。
 多江は、このくずきりのような女だと私は思う。透き通ってコシがあり、つるりとして爽やかな香りがする。そのレモンの香りのくずきりに、壬生の胸は、それほどすうっとしたことだろう。
 「時雨の記」の余韻の中で、私はインターネットでレモン味のくずきりを検索し、取り寄せた。届いたら、庭のあじさいを見ながら、ガラスの器でくずきりをつるつる啜ろう。そして、壬生孝之助と多江の恋を偲びたい。

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