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2017年4月―NO.169

漂って止めがたい和の香りを、ゼリーに閉じ込めるとは、
なんと洒落た大人の計らいだろう。

レストランかをりの「桜ゼリー」

 毎年、桜が開花すると、世の中がいっせいにそわそわし始める。
「まだ三分咲きだ」
「見ごろは来週末かな」
 などと、ウキウキしながら満開を待つ。そうして、いよいよ見ごろを迎えたころ、どういうわけか毎年のように、天気が大きく崩れ初めるのである。春の嵐がやってくる。
「あ~あ、せっかくの桜が台無しだ」
「花散らしの雨だね」
 と、みんな恨めしそうに雨雲を見上げながら、はかない花の命を惜しむ。
 昨今、人の名前がスラッと思い出せないこの私が、そんな時、四十年以上も昔に古文の授業で習った歌をひょっこり思い出す。
「世の中に たえて桜の なかりせば
 春の心は のどけからまし」
(この世に桜なんてなければ、春はもっと心のどかに暮らせるのに)
 この時期、桜の花と天気のことに気を揉みながら過ごすのは、千年前の人も、私たちも同じなのだ。
 数年前のちょうどこの時期だった。仕事の打ち合わせの帰り道、急に雨が降ってきた。電車の窓を斜めに流れ落ちていく雨粒を見ながら、
「一番きれいな時なのに、もう見納めか」
 と、思ったら、居てもたってもいられなくなり、電車を途中で降りて雨の千鳥ヶ淵に向かった。
 ライトアップされた桜の森で、九段の坂の上全体がぼうっと白く輝き、この世のものではないような妖しさだった。行列をくんで遊歩道を歩きながら上を仰ぎ見ると、垂れ込める枝が幾重にも重なり合い、桜の天井になって、夜空も見えない。足元は舞い散った桜で、まるで雪が降り積もったように白かった。桜・桜・桜……。その景色に感極まり、
「ああ、来てよかった!」
 と心から思った。
「明日ありと 思う心の あだ桜
 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
 そう詠んだのは親鸞聖人だ。明日があると思うな。夜半の嵐で、明日はないこともある。親鸞聖人も、桜の季節に、「今のうちに見なければ!」という焦りにも似た感情を味わったのだろう。
 だけど現実には、桜はそれほどか弱くはないことを、春を六十回めぐった私は知っている。あの花は、一見、繊細ではかなげにだけれど、雨や風の暴力で散ったりはしない。風に舞い散っているのは、あれはもうすっかり咲ききった花なのだ。桜は、散るべき時が来るまでは、雨風の中でもしっかり咲き続けている。
 むしろ、桜がいっせいに散る姿を見るのは、嵐が過ぎ去った後の、空も晴れ晴れとしたうららかな午後だったりする。風もないのに、雪のようにはらはらと散り急ぎ、時おり、通り過ぎる車や電車の起こす風に、ファーっと空高く舞いあがる様は、桜の妖精たちが、
「さぁ、行くよ!」
「さよなら!」
 と、言っているようで、その潔さと晴れやかさに胸がいっぱいになる。
 そんな時、またしても古い記憶の底から、古文の授業で習った歌がヒョイと出て来る。
「ひさかたの 光のどけき 春の日に
 しず心なく 花の散るらむ」
(こんなのどかな春の日に、どうして桜は散ってしまうのだろうか)
 教科書でこの歌を習った時は、枕詞や古語の文法、意味の解説を聞いて通りすぎるだけだった。けれど今は、昔の人と共感し合える気がする。
「あなたも、そう感じられたのですか? 私もまったくあなたと同感です。きっと桜は、十分に咲いたら、自分で決めて旅立つ花なんでしょうね」
 と……。

 この時期、デパートのお菓子売り場も、「桜もち」「桜まんじゅう」「桜ロールケーキ」と、桜色に染まっている。
 そんなたくさんある桜のお菓子の中から、私が誰かへのプレゼントを探すとしたら、横浜の老舗レストラン「かをり」の「桜ゼリー」を迷わず選ぶ。
 美しいリボンを解き、パッケージを開いて、封をあけると、淡い色の汁が少し滴る。それと同時に、鼻腔にたちまち、なんとも上品なかぐわしさがやってきて、思わず瞼を閉じ、深く息を吸う。それは決して、甘ったるい香料などではない。昔の高貴な女性の裳裾を思わせる品のある香りが風にたゆたうのだ。
 皿に移すと、つるんと滑り、ゼリーの周りに、ほんのりとした色の水がたまる。よく見ると、ゼリーの中で、薄物のような花弁が咲いている。それは、祝いの席に、蓋つきの湯呑みなどで勧められる桜茶に浮かんでいる八重桜。あの「これぞ、和」という奥ゆかしさを感じさせる香りだ。その塩漬けになった八重桜の塩気を抜いて、ハチミツに漬けたものを使っているという。
 スプーンで口に運ぶと、ほのかな甘みと白ワインの酸味が口中に涼やかに広がり、八重桜の香りが鼻に抜けていく。
 漂って止めがたい和の香りを、ゼリーに閉じ込めるとは、なんと洒落た大人の計らいだろう。
 たくさんはいらない。ただ、年に一度か二度、こんな香りに身をひたすとしたら、日本中が桜に心躍らせている今がいい。

横浜かをりのホームページ