身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2004年8月―NO.23
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人間は完璧なものに耐えられず、
ちょっと壊れたもの、乱れてものに、心惹かれる生き物かもしれない

後文の「かんざし」


つゆと薬味
つゆと薬味
(画:森下典子)

 先日、友達と秋田の温泉に行った。温泉の効果か体調はすこぶるよく、気が付くと、おなかがぺこぺこになっていた。
 その夕方、バスで街へ出て、稲庭うどんの店に飛び込んだ。
「せいろ、ください」
「私も、せいろ!」
 私たちは矢継ぎ早に注文し、待つ間ももどかしく、手にしたメニューをじっと眺めていた。
 そのメニューには、稲庭うどんのアップの写真が載っていた。茹でたてを冷水でキュッとしめたのだろう。透き通った麺がみずみずしく濡れ、絹糸のように光っている。
「わぁ〜」
「見てよ。16,7歳の娘の湯上り姿みたい。つるつるして色白で、この艶……」
「あ〜、もぉ〜駄目」
 最近、あれほど悩ましい思いをしたことはない。私は、稲庭うどんの写真に悶えた。
 数分後、注文した「せいろ」が運ばれてきた。実物の稲庭うどんの透き通ったみずみずしさは、写真以上だった……。
「うわぁ!」
 と、叫んだきり、その「せいろ」をどうやって食べたのか、記憶がない。とにかく、一度も箸を止めることなく、あっという間に食べ終わっていた。
 稲庭うどんには、他のうどんにはない特別な魅力がある。ただ胃袋をふくらませたいだけならば、他のうどんでもいいが、稲庭うどんは、「腹が減った」という欲求だけでなく、何か、感覚的な欲望を駆り立てる。五感が食べたがるのである。
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