身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
HOME

 


 
2006年4月―NO.42
  3

横浜・馬車道の交差点に立ったら、
きっと食べたいものは、 おいなりさんに変わる……

泉平の「まぜ」


いなりずしと干瓢巻き
いなりずしと干瓢巻き
(画:森下典子)

 「泉平」で買った「まぜ」も、ポリエチレンの袋に下げて家に帰るまで、できるだけ底を平らに持つように気をつけて歩くのだけれど、それでも歩いているうちにいつの間にか斜めになってしまう。
 家で包みを解くと、ちょっと偏っていたりする。これも味の一部だ。
 「まぜ」一箱に、いなり4個、干瓢巻き4個が入っている。干瓢巻き4個が一列にぴっしり並び、いなりずしは3個並んでいる。並びきらない1個だけが横に入る。「まぜ」の、昔から決まったレイアウトだ。
 「泉平」のおいなりさんの特徴は、おあげである。おあげが大きい。大きなおあげから作った細長いおいなりさんを二つに切った俵型で、これがとても食べやすいのだ。
 見ただけで、甘い香りがする……。おいなりさんが汁でつやつや光って私を呼んでいる。
「……」
 私はいつも、並びきらず一個だけ横に入ったのからスタートする。
 口に入れると、たちまちじゅわーっと味がしみ出る。油揚げのかすかな弾力に、飯粒が混じりあう……。
 江戸時代、高野山で伝授されたいなりずしの味を、大衆向けの甘めの味付けに研究したそうだが、この昔ながらのしっかりとした甘さが、「泉平」の味なのである。
 具はない。しっかりと甘く、それでいてくどくない。この油揚げの味のゆるぎない安定感だけで十分なのだ。その安定感が、心と体にしみいる。
 次は干瓢巻き……。歯の間でしばし抵抗した海苔が、ブチッと裂ける。ぷうんと海苔の香りが立ち、それが干瓢煮の甘辛さやご飯の味と交じり合う。
 いなりずし→干瓢巻き→いなりずし→干瓢巻き→いなりずし→干瓢巻き……。幸福な循環が繰り返される。おいなりさん4個、干瓢巻き4個。これだけで、体も心も満たされる。
 横浜・馬車道の交差点に立ったら、きっと食べたいものは、おいなりさんに変わる……。 

戻る



Copyright 2003-2024 KAJIWARA INC. All right reserved