身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2007年2月―NO.52

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あのチョコレートの畝の隙間に挟まったクルミを見ると、懐かしさと同時に、
ふっと合格発表の日の、羽根の生えたような嬉しさを思い出す

喜久家洋菓子舗の「チョコレートケーキ」


ボケ
ボケ
(画:森下典子)

 夜更けにコートをひっかけて、近所のコンビニまで牛乳を買いに行った。「暖冬」とはいえ、2月の夜はしんしんと冷え込む。坂道の下から、冷たい風が吹き上ってきて、思わずコートの前をかき合わせた。
 その時だ。切っ先の鋭い寒風の中に、ほんの一筋の、甘い香りが混じっているのを、ふっと感じた。
(あ、どこかで花が咲いている……)
 その刹那、心細いような、寄るべない気持ちが私をよぎった。
 この不安な感情には覚えがある。そうだった。いつも、この匂いを嗅ぐと、同じ冷たい風に、同じ一筋の甘い香りを嗅いだ日のことを思い出すのだ。
 今年2月1日、
「首都圏の1都3県で、私立と国立の中学受験者が過去最高の5万人を超えた」
 というニュースが流れた。ちょうど38年前のその日、私も母親に付き添われて私立中学に向かった受験生の一人だった。
 今も覚えている。底冷えのする朝だった。寒さと緊張で体が震え、私はその震えを止めようと、こぶしを強く握った。
「受験票、ちゃんと持ってるわね」
「うん」
「鉛筆と消しゴムも、大丈夫ね」
「うん」
「後悔のないように頑張ってらっしゃい」
 母の声に背中を押され、試験会場に入った。
 2月1日と2日で、横浜市内の私立の女子中学を2校受けた。正直、自信はなかった……。
  試験会場に、暖房がなくて、かじかむ指先に「ハーッ!」と息を吹きかけ、温めながら鉛筆を握り、答案を書いた。

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