身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2010年3月―NO.88

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粒々がしっかりしていて、先にふわんと日本酒が香り、
それからピリッと辛く、そして最後にほのかに柚子が香るのだ。

やまやの「辛子明太子」


三英堂の「四ケ村」
やまやの「辛子明太子」
(画:森下典子)

 ある日、三浦半島にすんでいる知り合いが、
「走水海岸あたりで潮干狩りができる」
 と、教えてくれた。
 ある年の3月、晴れて暖かい大潮の日、私は一人でバケツと熊手を手に、三浦半島の走水海岸にでかけた。ちょうどお昼前後が干潮で、遠浅の砂浜が広々と続き、あちこちで家族連れや中高年の人たちが砂を掘っていた。
 パンツの裾をまくり、生ぬるい干潟に足首まで埋まると、もうそれだけで、体に蓄積したストレスが抜けて行った。砂にしゃがみ、背中に太陽をぽかぽかと浴びながらサクサクと砂を掘った。さっきまで脳の中にびっしりと根を張っていた考え事がするすると消えて、頭の中は、ザザー、ザザー、という遠い潮騒だけになった。時々目を上げると、きらきら光る沖を漁船が往来する。干潟のあちこちで、ピュッ、ピュッと貝が潮を吹く。
(ああ……もう何もいらない)
 開放感が体にわき上がった。
 「癒し」も「ヒーリング」も、そんな言葉すらなかった昔から、日本人はこうして大潮の日に貝を獲ることで、海の生命力、満月のパワーを体に取り込んでいたのか……。
 波がひたひたと寄せ、みんな、ぞろぞろと岸に引き上げた。乾いた砂浜に腰をおろして、私は潮風の中でお弁当を広げた。
 今朝、ほかほかのごはんで作ったおにぎりだ。ご飯粒がピカピカ光っている。潮干狩りの後は、どうしてこんなにおなかがすくのだろう。矢も盾もたまらず頬張ると、中から透明な肌色にみずみずしく光る辛子明太子の粒々がこぼれ出る。「やまや」の辛子明太子は、粒々がしっかりしていて、先にふわんと日本酒が香り、それからピリッと辛く、そして最後にほのかに柚子が香るのだ。
  海の甘じょっぱい潮の香りと、太陽の匂いがまぶされて、それは、あの日の祖母のおにぎりのように幸せな味がした。

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