身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2011年12月―NO.106

それは、今まで食べたどのアップルパイとも違っていた。

シロップに漬けこんだ丸ごとのリンゴの歯触りがシャキシャキと生きている。

それを包んだ薄いパイ皮のバターの香りが、香ばしい。

ラグノオささきの「気になるりんご」


 師走のある日、お茶会があった。私の先生も席を持ち、他にもいくつか席が開かれていた。お茶会ではそれぞれの席主が、趣向を凝らして道具を選び、座をしつらえる。
 師走のお茶会では、床の間にしばしば登場する掛け軸がある。
「先今年無事目出度千秋楽」

掛け軸
掛け軸
 読み方は、
「まずは今年の無事をもって、めでたく千秋楽とす」
 人生には、照る日曇る日いろいろあるけれど、こうして無事に年の瀬を迎えられたのだから、まずはめでたい……という意味だろう。前の年も、その前の年も、この掛け軸を見るたびに、そんなことを感じ、社中の仲間と微笑みながら一年を見送るのが年末の恒例だった……。
 しかし、2011年の暮れは、いつもとは違っていた。大震災と、それに続く原発事故で、現在も先の見えない状況の中にいるたくさんの被災者の方々のことを思うと、どうしても「めでたい」という気持ちにはなれないのだ。
 いつもの茶会なら、樂だ、大樋だ、家元の花押だと、並んだ道具の豪華さに目がくらむ思いがするのに、今回は、岩手の南部鉄の釜、福島の会津塗のお道具、宮城県・松島にある瑞巌寺にゆかりの掛け軸や銘菓と、申し合わせたわけでもないのに、自然に「東北」のものが多く目についた。
 私の先生が、このお茶会の席に掛けた新しい軸は、
「無事」
 という二文字だった。本来は禅の突き抜けた境地を意味していて、
「求めるべき仏もなければ、行くべき道もない。ただ、あるがまま心が平安であること」
 なのだそうだが、「無事」という言葉が、これほどズシンと特別な響きを持って感じられたことは今までになかった。
 そうなのだ……。格別に目覚ましいことなどなくてもよい。ただただ、無事で生きてあることのありがたさを、身にしみて感じた一年だった。同時に、
「どうか来年は無事で穏やかな日々であるように」
 と、切に祈らずにはいられない。

その日の夕方、お茶会から家に戻ると、宅配便が届いていた。小包の差出人の名前を見て、思わず「あら、懐かしい!」と声が出た。青森に住んでいる学生時代の友人だった。
 紙包みを解くと、中から出て来た赤い紙箱に、手紙が添えてあった。ここ何年もお互い連絡していなかったから、久々の手紙だった。
「森ちゃん、きっと元気で仕事に頑張っていることと思います。こちらはもう雪で真っ白です。実は、娘が去年結婚して初孫が生まれ、おばあちゃんになりました。息子もやっと就職して県外で暮らし始めたので、気が付いたら新婚以来のオトウサンと二人の日々。喧嘩しつつ、まあ、何とか元気にやっていますのでご安心ください。
 今年は大震災で、遠縁の一家や幼なじみの家族が何人か被災し、大変な一年でした。こうして年の瀬を迎え、オトウサンと屋根のある家で温かく暮らし、夜は自分の布団で眠れることが、こんなにも幸せなことだったのかと改めて思っています。来年は、いい年になるといいね。
 少しですが、青森のリンゴを使った地元のお菓子を送ります。お母さんとおやつに召し上がってください。どうぞよい年を!!」
 見覚えのある美しいペン字は、五十代半ばになっても変わっていない。遠い場所で暮らしている友達の心遣いに、なんだか心がほっこり温かくなった。

ラグノオささきの「気になるりんご」ラグノオささきの「気になるりんご」
ラグノオささきの「気になるりんご」
 大きな立方体の赤い紙箱には、
「気になるリンゴ」
 とあり、弘前城や青森ねぶた祭の写真がついていた。
 蓋を開けると、中から紙の包みが出て来て、広げると大きなシュークリームのような焼き菓子がごろんと現れた。
「1個まるごとパイで包んで焼きあげました」
 と、書いてある。
「ねえ、おいしそうなお菓子をいただいたから、コーヒー入れるよ」
 と、声をかけると、母が「あら、嬉しい」と、いそいそやってきた。
 ドリップコーヒーを丁寧に入れ、大きな洋皿の真ん中に「気になるリンゴ」を置く。
「わぁ、なにこれ?!」
 と、母が叫んだ。
 真ん中からナイフを入れると、すぐに刃先がサクッとリンゴに刺さった。そのまま真っすぐ二つに切り下ろし、切り口を開くと、琥珀色に透けたリンゴの断面がきれいに見え、それと同時に、あたりを甘い香りがファーっと包んだ。
「あらぁ〜、いい匂い!!」
 キリリと冷たい空気の中で嗅ぐ、蜜入りリンゴの香りは、冬の歓びだ。
 それは、今まで食べたどのアップルパイとも違っていた。シロップに漬けこんだ丸ごとのリンゴの歯触りがシャキシャキと生きている。それを包んだ薄いパイ皮のバターの香りが、香ばしい。
「青森の友だちが送ってくれたんだよ」
「そう。嬉しいねえ〜。お互い無事に年を越して、こうしておいしいものをいただけて」
 母はそう言いながらコーヒーを飲んだ。

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