身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2012年3月―NO.109

ふと「春の神」の裳裾に触れた様な気がした。

木村屋總本店の「酒種あんぱん」


JR東海の「そうだ!京都行こう」のテーマソング「マイ・フェィバリットシングス」のメロディーをバックに、咲き誇る桜が出てくると、私はいつもなんだか嬉しくて泣きたいような、踊りだしたいような気持になってしまう。
 去年だって桜は咲いたはずなのに、去年の桜はすっ飛ばしてしまったような気がする。震災と原発事故で、心から桜を楽しむ気持ちにはとてもなれなかったからだろう。だから今年は、「桜、桜」と、たぐり寄せるような思いで桜を待っている。

さくら
さくら
以前、日本文化の研究家からこんなお話をうかがったことがある。
梅も桜も春の象徴だが、梅は中国からの外来植物で、中国語の「メイ」という発音から、そのまま「ウメ」という名になったという。
では、「さくら」は、どこから来たのか……。
その日本文化研究家によると、大和言葉の「さ」という音は、「さわらび」「さなえ」「さおとめ」など、もともと「春」を意味するという。そして、「くら」とは、座る場所の意味である。つまり、「さくら」という言葉は、「春を司る神が座る場所」を意味しているというのだ。
冬枯れていた里山が、うっすらと赤みを帯び、やがて山全体が見渡すかぎり桜色にホワーッと膨らむ。昔の人たちは、それを見て
「春の神がやってきた」
と感じ、その神のいる場所を「さくら、さくら」と呼んだのだそうだ……。
満開の桜を見ると、嬉しくて泣きたいような、踊りだしたいような気持ちになるのは、もしかすると、そんな古代のDNAのせいなのかもしれない。
桜といえば、何週間か前にNHK大河ドラマ「平清盛」の中で、佐藤義清(のちの西行)が出家する場面が出て来た。西行は晩年、
「ねがわくは 花の下にて 春死なむ 
そのきさらぎの望月のころ」
と詠んで、本当にその「きさらぎの望月」(陰暦二月十六日)に亡くなったと言われている。陰暦二月十六日は、現代の暦では三月二十七日頃にあたる。
つい先日、テレビの情報番組で、「桜の日」というのがあることを知った。「サクラ、咲く」のゴロに合わせて、「3×9」で3月27日を「桜の日」に制定したということだったが、それが西行の亡くなった日なのは、なんとも不思議に思われる。

木村屋總本店の「酒種あんぱん」木村屋總本店の「酒種あんぱん」
木村屋總本店の「酒種あんぱん」

この間、デパ地下を歩いていて、ふと、ある匂いを感じた。
(……?)
 ちょっと潮風に似た匂い……。どこかで嗅いだことがある。そうだ、桜の塩漬けの香りだ!
 今年の桜の開花は、横浜では4月1日ころ。満開になるのは4月8日ころの予想だそうだ。「春の神」を待ちかねて、もうデパ地下では、塩漬けの桜の花や葉っぱを使った和菓子や洋菓子を売り始めているのだった。
 その売り場の先には「木村屋」があって、前を通るたびに、「酒種あんぱん」が見える。
 木村屋の酒種あんぱんは、乾燥を防ぐためなのだろう、木箱のケースに行儀よく並んでいて、何となく老舗の礼儀正しい小僧さんを思わせる。丸く、やや小ぶりで、こんがりと焼け、艶々光っている。その色、形がいかにも焼き立てっぽく、見ているだけで、ほこほことしたパンのぬくもりと、酒種酵母のむわっとした甘い香りが鼻先をかすめるような気がする。
 ケシの実をまぶしたものや、小倉、うぐいす餡など数種類ある酒種あんぱんの中でも、私が一番好きなのは「桜あんぱん」である。 真ん中におへそがあって、そのくぼみに桜の塩漬けが埋め込まれている。そのおへそが、美しく上品で、なんともかわいらしいのだ。
 この桜あんぱんは、伝統あるあんぱんで、明治天皇が召し上がったあんぱんとして知られている。
 木村屋が酒種あんぱんを作ったのは明治七年で、店先に長蛇の列ができるほどの大人気になったという。その翌年、明治天皇の侍従、山岡鉄舟が水戸藩下屋敷で行われるお花見の席で明治天皇に喜んでいただこうと、
「今までは京都の和菓子をお出ししていたが、純日本製のパンをお出ししてはどうか」
 と申し出、木村屋は日本を代表する花として、吉野に咲く八重桜の塩漬けを真ん中に埋め込んだあんぱんを作った。これを召し上がった天皇は大層喜ばれて、以後も献上することになったそうだ。桜あんぱんは永遠のロングセラー商品となり、パンそのものの普及にも一役買った。ちなみに、明治天皇に桜あんぱんを献上した日、四月四日は、「あんぱんの日」とされているそうだ。
 さて、お茶を入れて、買ってきた桜あんぱんをさっそくいただいた。
 袋から取り出すと、ふんわりと柔らかく、もう鼻の奥で、酒粕の甘い香りがする。半分に千切って、頬張った。
(…………)
 口の中で、桜のほのかな塩気と風味が、こしあんの甘さと混じり合う。そして、甘く柔らかい日本のパンの食感……。
 やさしく、庶民的で、情緒があり、絶妙に上品……。桜の風味とあんこの甘味が混じり合って、不思議に心が和んでいく……。
 ふと「春の神」の裳裾に触れた様な気がした。

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