身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2012年5月―NO.111

ひんやりして甘い。……ところが、その甘さの中に、何やら異質な味が入り混じる。

味噌のような風味で、初めは異質に感じるが、

口の中で甘味と入り混じり、次第にさっぱりとした大人の味に変わる……。

亀屋則克の「浜土産」



カニのお茶碗
カニのお茶碗

何歳の時だったろう。小学校の低学年だった気がする。ゴールデンウィークに家族と何度か潮干狩りに出かけたことがあった。父も母も祖母も、砂浜にしゃがんで、鉄の熊手で黙々と砂を掻き、貝を掘り出しては、海水で砂をすすいでバケツにゴロゴロと放り込んだ。私も大人たちと並んで、プラスチックの小さな熊手でせっせと砂を掻いた。
砂地に小さな穴が無数にあいている。そこに波が打ち寄せ、サーっと引くと、待ってましたとばかりに泡がたって、穴の中から水がぴゅーっと噴き出す。
「こういう穴の下に、貝がいるんだよ」
 祖母がそこをサクサク掘ると、とりどりの幾何学模様をしたアサリや、大きなハマグリがごろごろ出て来た。
 あの頃の私は、毎晩、布団に入ると知らぬ間にわからなくなり、目覚めればもう新しい朝になっていて、「今日」と「明日」がどのようにつながっているのか知らなかった。とりわけ、潮干狩りに行った夜は、一体いつ眠ってしまったのか、布団に運ばれていて、気が付くともう朝になっていた。
 あれから何十年も過ぎた……。中年になった私は、そういう黄金の眠りを失ってしまった。毎晩、「今日」が「明日」になり、すっかり朝になったのを眺めてから、やっと布団に入り、浅く眠る。長年そんな暮らしを続けてきたせいか、いつも肩こりに悩んでいる。時々、その肩こりが積もり積もって、背中から頭まで岩のようにガチガチに固まり、激しい頭痛におそわれる。
 四十代半ばのころ、ある日、急に「潮干狩り」に行きたくなった。もうずーっと、海に行っていなかった。ザザー!という潮騒。熊手でサクサクと砂を掘る感触。裸足で歩く浜辺。ピュッと潮を吹く貝……。思い出したら、矢も盾もたまらなくなった。物置の奥を探すと、錆びだらけの熊手とバケツが出て来た。麦わら帽子をかぶってバケツをぶら下げ、私は京浜急行の快速に乗った。行き先は三浦半島である。駅前からバスに乗ると、やがて目の前に遠浅の干潟が広がる……。
 真昼の干潮。田植えする人みたいに、生ぬるい干潟に足首まですっぽり埋まって、私はひたすら、ぬかるむ砂を探った。砂地の奥や岩陰を手でまさぐると、指が硬いものに触る。貝だ!それがまるで霜柱みたいに、びっしりと立っている。熊手などいらなかった。大粒のアサリが、素手で面白いようにごろごろと採れる。
 背中にポカポカとお日さまを浴びながら潮風に吹かれ、私は夢中になった。何も思わず、何も考えず、ひたすらアサリを掘る。暑くもなく、寒くもない。耳にはザザー、ザザーと、波音と、海鳥の鳴き声だけが聞える。
 一時間でバケツがずしりと重くなった。腰を伸ばして遠くに目をやると、真っ青な空と、キラキラ輝く海の向こうに、白い船が小さく見えた。
(ああ、幸せだ……)
 潮が満ちて来た。干潟から上がると、体が妙にさっぱりしていた。足の裏から毒素が抜けたような気がする。日々の悩みも、心に溜まった澱のようなストレスも、頭痛も根こそぎ消えていた。どうして早く潮干狩りに来なかったのだろう。ここに来ればよかったのだ。
 帰りの電車の座席でも、まだ耳の奥には波音の余韻が残っていた。目を閉じればキラキラ輝く海が見え、日焼けした肌に、潮風の爽快さを思い出した。全身がまったりとした快い疲れに支配され、そして、だんだん瞼が重くなる……。その夜は、布団に入るなりわからなくなった。久々に黄金の眠りを味わった翌朝、私は自分の体を、打ち直した布団のように感じた。

さざえの蓋置
さざえの蓋置

亀屋則克の「浜土産」
亀屋則克の「浜土産」

そういえば、お茶の稽古場で、貝を使った珍しい和菓子をいただいたのも、ちょうどこの季節だった。
「今日はいいものがあるのよ」
 いそいそと台所へ消えた先生が、捧げ持っていらした銘々皿の上には、なんと、立派なハマグリがごろんと載っていた。
「どうぞ、召し上がれ」
「……?」
 どうやって食べればいいのかわからない。「さ、殻を開けてごらんなさいよ」
 手に取るとヒヤッとした。冷蔵庫に入っていたのだろう。本物の蛤の殻がきれいに磨かれてあった。そのぴたりと合わさった貝の口に爪を当てると、パカッと開いた。
「わあーっ」
 中から現れたのは、金色に透ける錦玉羹である。透けた寒天の中に、何やら茶色い豆粒が一つ入っていて、その色がジワーッと滲み、まるで「焼き蛤」のように見える。
 銀の楊枝で切り、口に一切れツルンと入れた。ひんやりして甘い。……ところが、その甘さの中に、何やら異質な味が入り混じる。
「何だと思う?大徳寺納豆よ」
 味噌のような風味で、初めは異質に感じるが、口の中で甘味と入り混じり、次第にさっぱりとした大人の味に変わる……。
 その日の道具の取り合わせも忘れられない。茶器には、「青海波(せいがいは)」という波の模様があり、お茶椀には蟹の絵が描かれ、蓋置きは「さざえ」であった。
 そのハマグリの和菓子の名は「浜土産(はまづと)」。京都の亀屋則克から取り寄せた季節限定の和菓子で、まるで潮干狩りのお土産のように、竹籠の中に桧葉と一緒に入れて送られてきたのだそうだ。

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