身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2013年11月―NO.129

肉のいい香りと、カツの衣の食感と、まろやかなソースの味と、

パンの優しい香ばしさが口の中で混じり合う

新世界グリル梵の「極上ビーフヘレカツサンド」


 「ビフテキ」という言葉が好きだ。この四文字に、牛肉がジューッと焼ける匂いとバターの香りがこびりついているような気がして、思わず鼻が蠢いてしまう。
 両親に連れられて横浜駅西口にあった洋食屋に行き、生まれて初めてビフテキを食べさせてもらったのは小学二年の時だった。黒い鉄板に載せられた肉は熱々で、褐色の焼き目がこんがりとついていた。四角いバターがみるみる蜂蜜のような金色に溶け輝いた。
 その肉を口に入れた私は、きっと目を輝かせて、
(世の中には、こんなにもおいしいものがあるのか!)
 という顔をしたのだろう。父は、
「どうだ、うまいだろう。ビフテキだ」
 と、笑った。
 ちょうど東京オリンピックの頃だった。子供の目にも、日本の未来には明るいことしか起こらないように思えた。造船会社のサラリーマンだった父は「接待だった」と言っては、銀座の高級寿司店の折り詰めをぶら下げて帰って来るようになり、時々、家族ぐるみで、父の取引先の会社の社長さんからお食事に招待されるようになった。
 私と弟は白いタイツを履いておめかしし、白いテーブルクロスのかかったレストランで、目の前にずらっと並んだフォークやナイフと、「ミディアム」とか「レア」とかいう耳慣れない言葉に戸惑いながら、ビーフステーキをご馳走になった。
 だけど、その味は「ビフテキ」とは違っていた。私は「ビーフステーキ」よりも「ビフテキ」の方が好きだった。
「同じものだよ。言い方を短縮しただけだ」
 と言う人がいるけれど、そんなことはない。ビフテキの方が、確かにいい香りがして、素晴らしい味だったのだ。
 大人になって、自分の働いたおカネで、いろいろなビーフステーキを食べた。「シャリアピンステーキ」「サーロインステーキ」「Tボーンステーキ」……。だけど、小学校二年の時、父母に連れられて横浜の洋食屋で初めて食べた、あの素晴らしいビフテキほどおいしいものにはその後出会っていない。


お漬物
 ところで、大坂では「フィレ肉」のことを「ヘレ肉」と呼ぶという。スーパーの売り場にも堂々と「ヘレ肉」と書いてあるそうだ。
 そのヘレの極上の肉だけを使った「ビーフヘレカツサンド」の専門店が、東京に出店したとテレビの情報番組で知った。
 名前は「新世界 グリル梵」。「梵」とは、フランス語で「おいしい」という意味の「ボン」から付けた名だと言う。
 「ヘレカツ」と聞いた途端、(おいしそう!) と、直感したのは、その四文字に、どこか「ビフテキ」に通じる座りの良さを感じるからかもしれない。
 東京では「かつ」といえば「とんかつ」が当たり前だが、大坂は牛肉文化の土地で、「肉」といえば「牛」。「かつ」もビーフである。
 その「ビーフヘレカツサンド」が、JR東京駅の「ニッポンの駅弁」という店で買えると聞き、さっそく東京駅グランスタダイニングにある駅弁屋に買いに行った。
 ところが、
「売り切れです……すみません」
 と、頭を下げられた。食べられないとなると、なんだかますますおいしそうに思えて、たまらなくなる。
新世界グリル梵の「極上ビーフヘレカツサンド」
新世界グリル梵の「極上ビーフヘレカツサンド」
新世界グリル梵の「極上ビーフヘレカツサンド」
 店は東銀座にあって、イートインになっていると聞き、その足で向かった。地下鉄「東銀座」の地上に上がり、新しくなった歌舞伎座を背に、新橋方向に歩き、路地にちょっと入ったところに、喫茶店かと見紛うような洒落た小さな店があり、「梵」という旗が揺れていた。
 カウンターに座ると、メニューはシンプルに、一人前とハーフサイズの「ビーフヘレカツサンド」だけである。カウンターの中には六台のトースターがずらっと並んでパンを焼き、白い制服姿の若い男性が三、四人、パンにソースを塗ったり、サンドイッチの耳を切ったりしているのが見える。
 サラダを食べていると、ほどなく「ビーフヘレカツサンド」が目の前に差し出された。そのパンにはさまれた肉を見て、思わず「わぁ」と声が出た。
 いかにもうまそうなヘレ肉である。焼き加減はミディアム。厚みのある肉の中心部分が、まるで晴れた日の夕焼けのように、バラ色をしている。
 カリッと焼けたパンの温かさと香ばしさ。手で持って、口に頬張り歯を立てた瞬間、肉のあまりの柔らかさに驚いた。脂肪分の少ない極上のヘレだけあって、実にさっぱりとして、まるで溶けていくようだ。噛みしめると、肉のいい香りと、カツの衣の食感と、まろやかなソースの味と、パンの優しい香ばしさが口の中で混じり合う。
 このパンにサンドされているのは、まぎれもない極上のビフカツだ。邪魔も引っかかりもない上等な肉の素直な味がする。次から次へといくらでも食べられそうな気がするが、それでいて、質のいい栄養が、行儀よくおなかに収まって行く充実感がある。私は、幸せに顔がゆるんでくるのを感じた。
 その後も、私は時々、無性にあの「ヘレカツサンド」が食べたくなり、東京駅や東銀座の店に行くようになった。
 このごろ、「ヘレカツ」という言葉が好きになった。この四文字を見ていると、上等な肉の柔らかさが口の中に蘇って来る。

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