身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2014年3月―NO.133

どこか、早春の冷たい風の中の、一筋の梅の香りを思わせた。

藤丸の「清香殿」



茶器
 

あれは春まだ浅い、風の冷たい日のお茶会だった。三渓園の苑内の建物で席入りの順番を待っていたら、窓の向こうに見える中庭の梅の枝に、くすんだ緑色の小鳥が来ていた。
「あら、梅に鶯だわ」
 順番待ちしていた客の中の女性が、のんびりとした声を出すと、その前にいた江戸小紋に塩瀬の帯の女性が、振り返った。
「あれはメジロよ。目の周りが白いでしょ」
「そうなの? 私、梅に来る鳥は、みんな鶯かと思ってたわ」
「梅に鶯は花札。実際に梅に来るのは、メジロなんですって」
 そんなやりとりを聞いていたら、席が開いた。客が順々と吸い込まれるように席に入り、私もそれに連なった。やがて、静かにお点前が始まった。
 漆塗りの黒い干菓子盆が回ってきた。そこに盛られていたのは、見覚えのない長方形の板状の菓子だった。練乳のような淡い黄色を帯びた白で、表面には、皺のような何本かの筋が縦に入っている。
 その板の中に豆でも入っているのか、ポチッと一粒、黒い点がある。それが、かすかににじんで見える。
 お正客とご亭主のやりとりが耳に入った。
「このお菓子は、どちらの……」
「はあ、これは太宰府のお菓子で、藤丸の『清香殿』と申します」
 太宰府といえば、菅原道真ゆかりの場所である。宮中での派閥争いから讒訴され、太宰府に左遷された。道真が京を去る時に読んだといわれる、
「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花
       主なしとて 春な忘れそ」
 という和歌とともに、梅の名所としても知られている。
「清香殿」の「清香」とは、梅の別名だという……。その干菓子の表面の筋と、一粒の黒い点を見ていたら、ふと、遠いある日の夕暮れを思い出した。


藤丸の「清香殿」
 立春はとうに過ぎたけれど、まだ寒さの厳しい季節だった。お茶の稽古を終えていつものように先生の家を出、暗くなった帰り道を歩いていると、顔にあたる風が冷たかった。けれど、その寒さの底に、ほんのかすかに春の気配がする……。
 その時、ふと気づいたのだ。そういえば、さっき先生の家を出た時から何度も、ほのかな甘い香りを感じていることに……。それはカシミアのストールでそっと包み込まれるように優しく、気品ある香りだった。その匂いが鼻先をよぎるたび、私はまるで何かの気づきを得たかのように、心の中で「あっ」と小さく声を上げた。
 視線を遠くへやると、通りの向こうの民家の庭先の木が目に入った。天に向かってツンツンと伸びた無数の枝々に、ポチ、ポチと花が咲いているのが夜目にも白く見えた。
 梅だ!梅が咲いている!
 香りは、その木から帯のように流れ、冷たい風に乗って、私の鼻先をかすめ過ったのだった。
(梅の香りとは、これか!)

藤丸の「清香殿」
 私はそれまで、「梅の香り」という言葉を、何十回となく歌や文学で読み、自分でも何十回となく使っていた。「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花」という道真の歌も、しばしば口にした。それなのに、言葉として知っているだけで、それがどんな香りなのか、実際には知らなかったのだ。
 その日、梅の花とその香りは、初めて結びついた。私は三十歳を過ぎていた。本当に梅の香りを知るのに、ずいぶん長い年月がかかったものである。
 何かを本当に知ることは、一つ一つ時間がかかる。私はこの人生で、一体いくつのことを本当に知っただろう。たぶん、それは数えるほどしかない。そして、きっと一生かけて、ほんのわずかなことを本当に知っただけで、死んでいくのだろう。だけど、それでいい。数少なくとも、本当に知ったことだけを大切に味わって生きていきたい。 
 その時から、梅は私の人生の外側ではなく、内側で確かに咲くようになった。厳冬期の空に向かって、ツンツンと伸びた枝の先に、ポップコーンが爆ぜたような白い花がポチッと一粒咲く。たったそれだけで、もう冷たい風の中に、かすかに春が始まり、メジロが枝にやってくるのだった。その一粒咲いた小枝を切って、部屋に差すだけで、部屋の空気がファーッと明るくなる。その明るい空気を胸いっぱい吸うと、ふんわりとした甘い香りに、希望がわいてくるのだ。

 お茶会で「清香殿」を目にした時、表面の何本かの筋と、そこにポチッと見える黒い一粒が、あの夕方の、梅の花を思いださせた。
「さあ、どうぞ、お召し上がりください」
 促されて、懐紙に一枚取り、口に入れた。メレンゲ菓子のように乾いた食感を想像していたが、意外にもマシュマロのように中が柔らかく、ふわんと卵が香る。
 豆だろうと思っていた黒い一粒は、大徳寺納豆であった。その味噌に似た独特の風味が、卵のほのかな甘みの中に、一瞬の味の変化をつけている。
 それはどこか、早春の冷たい風の中の、一筋の梅の香りを思わせた。


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