身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

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2015年8月―NO.149

わが家の家族にとって、焼ビーフンは、とりもなおさず父の思い出である。

ケンミン食品の「焼ビーフン」

「ビーフ? オア ビーフン」
 ケンミンの焼きビーフンのCMが流れている……。わが家の家族にとって、焼きビーフンは、とりもなおさず父の思い出である。
「おっ、今夜はビーフンか」
 母が黒い中華鍋でビーフンを混ぜながら水分を飛ばしていると、父は台所をのぞいて、「よおく焼いてくれ。所々、焦げたくらいの方がうまいんだ」
 と、注文を付け、嬉しそうにいそいそと手をこすり合わせた。
 私もビーフンが好きだから、父の気持ちが理解できる。なんといっても、ビーフンはあの細麺のコシと、さっぱりとした歯切れの良さだ。驚くほど弾力があり、それでいながら質感がパサッとしていて、麺同士がくっつかない。
 そのさっぱりした食感は、原料からくるものだ。タイ米で知られるインディカ米を水に浸して軟らかい粉状にすりつぶし、水分を絞って蒸して生地にする。これをところてんのように押し出してめん状にしてさらに蒸す。蒸したあと、麺同士がくっついてしまわないよう、熟成後に1本いっぽん手でほぐして乾燥させたものだという。ベタベタしたり、からんだりしない。こざっぱりとして、なんていい性格だろう。だからおなかももたれない。父は若い頃から胃潰瘍で、食の細い人だったが、ビーフンの時ばかりは食欲を見せた。
 実は、父がビーフンを初めて食べたのは戦争中。インドネシアのバンドンだったそうだ。だから、ビーフンを食べる時、私は母から聞いた父の戦争体験をいつも思い出す。

 昭和十八年。二十歳だった父は、海軍の技術者として南方に向かう途中、台湾沖でアメリカの魚雷の攻撃を受けた。船体が凄まじい衝撃を受けた瞬間、父は海に飛び込み、必死に泳いで沈没する船から離れたが、そのまま意識を失い、気が付くと、重油の海の中に浮かんでいたという。
 同じように重油の中で浮かんでいた人たちが声を掛け合い、飛び散った船の破片を集め、それにつかまって海を漂った。敵機がやってきては、やっと浮かんでいる生き残りの者たちをなめるようにダダダダ!と撃った。夜が明けるたび、何人もの人が見えなくなっていたという。
 船がやってきて、先端に棒を結わえ付けたロープの束が海に投げ込まれたのは四十八時間後だったそうだ。若かった父は泳いでそのロープにしがみつき引き上げられたが、もはやロープをつかむ力も残っていなかった人たちは、そのまま海に残された……。
 戦後三十年四十年たっても、父は時おりボーっとした様子で、母にぽつんと、
「俺、あの海で一度死んだんだよな……」
 と、つぶやくことがあったらしい。私や弟には、あまり戦争の話をしたがらない父だったが、夕焼けの海に取り残され、手を振る人たちが、遠く小さくなっていく光景を、母は幾度か聞いていた。おそらく、父の心に焼き付き、終生、消えなかったのだろう。
 九死に一生を得た父はシンガポールの病院で治療を受け、回復後、インドネシアのバンドンに移された。
「緑の中に、赤い瓦屋根の建物が並ぶきれいな町でな、ブーゲンビリアが咲いておった。バナナの葉っぱの上に焼きビーフンを載せたのを売っていてなあ。これがうまいのなんの。麺が細くて、独特のコシがある。水気がとんで、ちょっと焦げたところがあるのがまたうまいんだ」
 日本の敗戦を聞いたのも、バンドンでだったそうだ。
「生きて日本に帰れるかどうかわからない。明日はどうなるかもわからない」
 父は半ば自暴自棄になったそうだ。「時々、ガソリンを呑んだ」と聞いたことがある。
「えっ、ガソリンを?」
「酒の代わりだよ。ガソリンを呑むと、アルコールの味がするんだ。ガソリン呑んで、南十字星を見上げて、これからどうなるんだろうと思ったもんだ」
 私が知っている父は戦後の父だ。造船会社で大型タンカーの建造に携わり、造船大国日本を背負っているという自負に溢れていたが、胃潰瘍でいつも胃薬を手放せなかった。それにもかかわらず毎晩、酒を呑む。ついに四十二歳の時に倒れ、胃の三分の二を切除した。それでも、
「悪いところは切ったんだし、また呑める」
 と、懲りることなく、六十六歳の時に脳内出血で亡くなるまで酒をやめなかった。
 父が他界して十年以上たったある日、父と同年代の人の戦争体験記を読む機会があった。父と同様、船が撃沈されて重油の海を漂いながら奇跡的に生還した人の手記だった。その手記の中に、飲み込んだ重油は、じわじわと浸みこみ、内臓を蝕むと書いてあった。
「あっ」と思った。父の胃潰瘍の本当の根っこは、もしかすると酒ではなく、戦争の傷だったのではないだろうか……。

「ビーフ? オア ビーフン」
 岸部一徳の出ているCMを見てクスッと笑い、今日はケンミンの焼きビーフンを買ってきた。冷蔵庫にあった豚肉と野菜を使って、久しぶりに焼きビーフンを作ろう。
 父がこだわったように、水分をよくとばし、ちょっと焦げ目がつくくらいにして……。
 そういえば、もうすぐ七十回めの終戦記念日がやってくる。

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