身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

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2016年4月―NO.157

桜を思い、桜で遊ぶ。そんな国に生まれてよかった。

春の和菓子いろいろ

(亀屋伊織の「干菓子」、利休忌の「おぼろ饅頭」、松屋本店の「吉野懐古」、紅梅屋の「さまざま桜」)

 関東地方で一番早く「桜まつり」が始まるのは伊豆の河津だ。河津桜はソメイヨシノに比べて色が濃い。そのピンクに染まった桜並木の下には菜の花が列をなして咲き、ピンクと黄色のコントラストが春を先ぶれする。
 河津の桜が終わるとやがて、関東以西のどこかでソメイヨシノの開花が、一番のりを上げる。それが合図になって、各地で三々五々、あるいは同時多発的に開花が始まり、いよいよ花見シーズンの幕が切って落とされる。
「満開はいつか」
「見ごろはいつまでか」
「桜前線はどこまで行った」
 日本中が桜を思ってそわそわし、雨や風が吹けば、あのデリケートな花びらが散りやしないかと気を揉む。
 二十四の季節に恵まれた日本は、そのどれをとっても特有の美しさがあるけれど、「最高の季節を一つだけ選べ」と言われたら、やっぱり「清明」と呼ばれるこの時期だろう。花も生きものも人も、長い冬がようやく終わり、活動期が始まったという歓びに沸き返るのだ。
 この季節に暮れなずむ町を歩いていると、
「春宵一刻値千金」
 という有名な漢詩の一節を思い出す。満開の花で灰白色に霞んだ空に気が満ちて、寒くなく暑くもなし。この一瞬に、心も体も満ち足りる。


亀屋伊織の「干菓子」
亀屋伊織の「干菓子」

 何年か前、お茶の先生がこの季節にお茶会を催されたことがあった。その準備中、
「あなたに任せるから、何かいいお干菓子を選んでちょうだい」
 と、先生から申し付かり、
「お任せください」
 と、喜び勇んで、これぞという美しいお菓子を探した。雑誌やインターネットを駆使し、「これ以上のものはない」と思ったのは、京都の「亀屋伊織」のお干菓子である。
「淡いピンク色の丸い麩焼き」
「白い蝶の打ち物」
「水色の有平糖の流水」
 いかにも京都らしいはんなりとした色づかいで、眺めていると、なんだか目がとろけそうな心地になる。街全体が桜色の靄にかすみ、川のせせらぎに柳が揺れて、時おり蝶が飛ぶ。そんな、まさに「値千金」の春を思わせる、甘やかな風情の籠った干菓子だった。

利休忌の「おぼろ饅頭」
利休忌の「おぼろ饅頭」
 亀屋伊織さんは四百年以上続く老舗で、お干菓子が専門。予約注文のみの、お茶の世界では憧れのお店である。
 先生も「上等なお菓子ね」と、喜んでくださった。お茶会の日は、ポカポカ陽気に恵まれて、山渓園のお庭に、ひらひらと蝶が飛んでいた。黒い塗の干菓子盆に盛った三種の干菓子をお席に運ぶと、
「あら、すてき!」
「こんなにいただいてよろしいの?」
 と、声が上がった。
 お茶会が無事に終わってから、社中の仲間と、残ったお干菓子をいただいた。ピンクの麩焼きは薄くデリケートで、口に入れるとメリッと裂け、ほのかに甘酸っぱい。水色の有平糖は、飴なのにサラッとして、口の中で甘く溶けていく。それらの甘みと食感が、熱い薄茶のほのかな苦みで、春の夢のようにはかなく消えて行った……。
 春のお菓子と言えば、利休忌の「おぼろ饅頭」がある。利休さんの祥月命日は旧暦の二月二十八日で、新暦だと三月の終わりから四月初めのころになる。利休忌には、稽古場の床の間に、利休の辞世の掛物と、菜の花を飾ることになっている。利休さんが切腹した日、床の間に菜の花が飾られていたからだそうだ。
 利休忌には「茶カブキ」をするのが恒例になっている。「茶カブキ」というのは、濃茶を飲んで茶銘を当てるゲームで、先に、茶銘を明かした二種類の茶を試しに味わい、ゲームの本番に入ったら、その二種類ともう一種類、銘を明かさない茶を、順序をわからないように変えて飲む。この三服の順番を投票で当て、勝負を競うのである。たった三種類で、しかも二種類はさっき飲んだばかりの味なのに、これを当てるのがなかなか容易でない。
松屋本店の「吉野懐古」
松屋本店の「吉野懐古」
 この「茶カブキ」の最初にいただくお菓子が「おぼろ饅頭」である。ふっくらと丸い黄色の饅頭だが、表面がボソボソと毛羽立って、それがどことなくおぼろ月のように見える。蒸し上がったばかりの饅頭の薄皮を、ペロッと剥がしたものだそうだが、眺めていると、
「菜の花畑に入り日薄れ 見渡す山の端 霞深し」
 と、思わず「おぼろ月夜」が口をつく。
 この時期、うちの先生は、いろいろな地方から桜のお干菓子を何種類も取り寄せて、
「さあ、食べ比べて御覧なさい。これもお勉強よ」
 と、お盆に出してくださる。
紅梅屋の「さまざま桜」
紅梅屋の「さまざま桜」
 千本桜で有名な吉野の葛を使った奈良の「吉野懐古」は、ピンクと白の上品な打ち物で、噛むとポクッと壊れ、葛粉のきめこまやかな舌触りと、うす甘さが好もしい。
 三重県から取り寄せてくださった伊賀上野の「さまざま桜」は、桜の形の薄い干菓子で、口に入れると、海苔の風味がふわんと漂う。「『さまざま桜』なんて、名前がいいでしょ」
 その干菓子の銘が、松尾芭蕉の句、
「さまざまの こと思ひだす 桜かな」
 から来ていることを、私は五十歳近くなって知った。
 桜を思い、桜で遊ぶ。そんな国に生まれてよかった。

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