森下典子 エッセイ

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2003年4月―NO.7

  


上品な餡の甘さと、
塩気のきいた桜葉の香りが混ざり合う
そのバランスは、
他のどんな味にも似ていない
長命寺桜餅山本やの「桜餅」









長命寺桜餅山本やの「桜餅」
(画:森下典子)

 今年の桜は、例年より四、五日早く咲いた。東京の桜が二分咲きになった日、ポカポカ陽気に誘われて、桜餅を買いに出かけた。
 地下鉄銀座線・浅草駅を降りて地上に上がると、どこからともなく哀調を帯びたクラリネットの音色に乗って「お富さん」のメロディーが流れてきた。大衆演劇ののぼりが、ひらひらとはためいていた。
 二十一世紀になっても、浅草はやっぱり「昭和歌謡」の似合う町だ。吾妻橋のたもとにそびえるアサヒビール本社ビルの金色のモニュメントも、もともとは外国人アーチストがデザインした超近代的なオブジェだったはずだが、今ではすっかりここに溶け込み、大衆的風景の混沌の中で「巨大な人魂」にしか見えない。
 私は遊覧船乗り場の行列をかき分けて吾妻橋を渡り、首都高速の高架下を歩いた。向かう先は向島・長命寺である。一口に「長命寺の桜餅」というから、私はずっと、お寺で桜餅を売っているのだとばかり思っていたが、正しくは、長命寺の門前にある「山本や」の桜餅である。
 「山本や」では、春だけでなく、通年で桜餅を製造販売していて、毎週一回、銀座・三越や松屋など、都心の一部のデパートに桜餅を出しているが、花見のシーズンは特に忙しいので、デパートでの販売はお休み。向島まで出かけて買うしかない。しかも、桜の見ごろには店先に行列ができることもあるほどで、電話で問い合わせたところ、
「ご予約いただいたほうがよろしいかと思います」
とのことだった。
 隅田川に観光船が行き交い、両岸にはほんのりとピンクに色づいた桜並木がどこまでもどこまでも続いて、先が霞んでいる。
 なんでも江戸時代、山本新六さんという方が、朝晩、隅田川の堤に降るように散り積もる桜の葉を見て、これを何か商売に使えないかと考え、餡をくるんだ薄皮を塩漬けの桜の葉っぱで包んだお菓子を思いついた。それが桜餅の始まりで、江戸の空前のヒット商品になったと言われているが、なるほど、満開の桜が吹雪になって川面を白く染めたら、やがて隅田川の両岸は、萌え出る若葉でむせかえることだろう。「桜の葉を食べる」という発想は、まさにそういうところから生まれたのだなと思った。

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