身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2007年1月―NO.51

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真面目で素朴であることは、なんてすてきなことだろう
私は「鳩サブレー」に、由緒正しき焼き菓子の香りを嗅いだ

豊島屋の「鳩サブレー」


鳩サブレーは牛乳と合う
鳩サブレーは牛乳と合う
(画:森下典子)

 東京で生まれ育った人の中には、東京タワーにいっぺんも上ったことがないという人が少なくない。
「毎日見てるから、却(かえ)ってチャンスがないんだよ。今さらなぁ〜」
と、東京人の友達は言う。
 「名所」「名物」は、地元の人間にとっては、ことさら意識しないまま、日々が過ぎてしまうのだろう。
 私にとって長年、「豊島屋の鳩サブレー」がそうだった……。
 そもそも、「鳩サブレー」との出会いは、まだ記憶もおぼろな幼児期にさかのぼる。
「かっくまら」
 私は「鎌倉」をこう呼んでいたらしい。
 父は休みの日、カメラを片手に、私をよく「かっくまら」に連れて行った。茶色くくすんだアルバムのモノクロ写真に、よちよち歩きの私が映っている。
 場所は、鶴岡八幡宮の玉砂利の境内……。こぶしを握り、何かに向かってよちよちと歩く私の姿は、まるで「奴凧」である。向かう先にあるのは、鳩の群れである。当時は、境内でエサの豆を売っていて、観光客が投げると足の踏み場もないほど鳩が群がった。
 だけど、「奴凧」には、まだ、豆と小石の区別もつかなかった。玉砂利をぎゅっと握り締め、鳩の群れに近づいては、パッと投げた。いっせいに鳩が飛び去った。
「あの子、やだー」
 と、修学旅行生たちに随分、嫌われたらしい。
 そういえば、父と「かっくまら」へ遊びに行った日、家へ帰ってから、お菓子を一かけら口に入れてもらったかすかな記憶がある。甘くて、サクサクしていた。そのことを、私はずーっと忘れていたのだ……。

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