身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2010年4月―NO.89

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元祖・インスタントラーメンは、青春の下宿屋の味がする。
日清食品の「チキンラーメン」


日清食品の「チキンラーメン」
日清食品の「チキンラーメン」
(画:森下典子)

 昭和33年の「チキンラーメン誕生」から今年で52年。実は、私の家も今年で築52年を迎える。うちは、私鉄沿線の大学のある町に建つ木造の総2階。細長い変形地に建っていて間口が狭い。いわゆる「ウナギの寝床」だ。昔の木造校舎のような外見で、2階には窓が並び、いかにもそれらしい風情なのだろう。昔から4月になるとよく、地方から出てきた学生さんや親御さんが、
「こちらは下宿屋さんですか?」
 と、訪ねて来られ、部屋を貸して欲しいと、頼まれた。うちは下宿として看板を出していたわけではなかったが、私が物心ついたころには、いつも学生さんが2階の部屋で下宿していて、にぎやかだった。
 北側の3畳間に、鹿児島から出てきた兄弟の大学生がいた。二人とも身長180センチもある大男で、どうやって二人、3畳に布団を敷いて寝ていたのか不思議なくらいなのに、そこにさらに友だちが泊まりに来て、時々、3畳から4,5人の男がぞろぞろ出て来て、母がびっくりしていた。
 今みたいに学生が洒落たマンションで暮らす時代ではなかった。風呂なし、食事なしで部屋だけ貸していたが、父はよく母に、
「2階の子たち、どうせ腹すかしてるんだろうから、呼んでやれよ」
 と言い、母が大きなどんぶりにどっさりと煮物など作って、2階に声をかけると、たちまちドドドーッと降りてきて、大喜びでどんぶりを空にした。
 彼らの間では、父は「おじさん」、母は「おばさん」と呼ばれていた。母はあの頃、20代だったはずだけれど、当時、結婚した女は、みんな「おばさん」だった。
 夫婦で下宿している人もいた。4畳半の部屋に、「桜田さん」という新婚のご夫婦が暮らしていた。まだ冷房はもちろん暖房もない。新婚夫婦の部屋の真ん中に火鉢が1つだけ。2階の廊下にある小さな流しで炊事をし、夫婦で洗面器を持って近所の銭湯に出かける。あの「神田川」のような暮らしだった。
 その桜田さんご夫妻が出た後の4畳半に下宿したのが「山本さん」だった。山本さんは大学を卒業後、映画会社に就職してからも10年近くうちに下宿していた最長の下宿人だった。
 山本さんは猛烈な読書家だった。4畳半の壁に、びっしりと蜜柑箱を積み上げ、そこにぎっしりと本が並んでいた。サルトル、ボーボワール、カフカ、トルストイ、芥川龍之介、太宰治。毎週日曜、山本さんは大量の洗濯をすませて、部屋の中で本を読んだ。そして昼になると、いつも流しで湯をわかし、インスタントラーメンを作った。オレンジ色の袋の「チキンラーメン」だった。
 どんぶりに四角い乾麺を入れ、熱湯を注いで蓋をし3分待つ。お湯をかけて3分でラーメンができるというのは魔法のように思えた。どんぶりの蓋を取ると、油くささと調味料の混じった妙に惹かれる匂いが、部屋いっぱいに立ち昇った。山本さんは、どんぶりの中の麺を、箸でよおく混ぜほぐしてから、実にうまそうに啜っていた。
  私は山本さんがいなくなってから、「オバケのQ太郎」や「ドラえもん」に出てくる「小池さん」というキャラクターを見るたびに、山本さんを思い出した。

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